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エッセイ〜月刊「百味」にて連載中〜

シェフとシェフ [月刊百味 : 2007年11月号掲載]

もともと、フランス語で“シェフ”は「リーダー・指導者」というような意味があります。日本では、レストランのシェフを思い浮かべますよね。 フランスのキッチンでは、シェフと呼ばれるポストがいくつもあります。魚や肉などそれぞれの調理場におけるリーダー“シェフ・ド・パルティー”、2番目のシェフである“スー・シェフ”、そしてキッチンで一番の“グラン・シェフ”など細かく決められています。誰からも「シェフ」と呼ばれるのは“グラン・シェフ”だけですが、シェフは実際に注文を受けて自らが包丁を握り、切ったり焼いたり・・・ということは殆どありません。実際に毎日調理するのはその下にいる料理人達です。ではシェフは一体何をするのか? ギャルソンが受けてきたオーダーはまずシェフに渡され、シェフはそれをキッチン全体に聞こえる声量と独特の抑揚で、リズミカルに次々読み上げていきます。それに呼応するように、すべての料理人は「ウィ、シェフ!」とこれまた大声で返し、一斉に調理にとりかかるのです。私は、パリのキッチンで働いているとき、この張り詰めたスタートを切る瞬間が一番好きでした。何人もいる料理人が、どこにいてもみんなで申し合わせてタイミングを計っているかのように、シェフの声に合わせてぴったりと絶妙なタイミングで返事をするのですから。ここから一気に調理が始まり、物凄いスピードでお皿が仕上がっていき、最後にシェフがソースや温度をチェックし、ギャルソンへと渡されていくのです。

一つのお皿が出来上がるまで・・・まるでそれは一つの曲のようによどみなく流れ、完成されています。そのリズムを生み出し統率しているのが、オーダーを読み上げる声のリズムであり、シェフ自身なのだと思います。  私がパリに住んで間もない頃、オーケストラで仕事をする機会がありました。隣のチェリストが、「シェフがシェフが・・・」と話しています。どこのレストランのシェフの事?と思い聞いてみると、なんと指揮者の事でした。そうフランス語では指揮者のことを「シェフ・ド・オーケストラ」というのです。そうか指揮者はシェフなんだ、と目からウロコが落ちる思いでした。 オーケストラは100人近くからなる大所帯、それを束ねるのが指揮者です。オーケストラにはいくつもの楽器があり、丸きり異なる複数の楽器の集合体で、実際音を出しているのはそれぞれのパートの演奏家達ですが、指揮者の裁量で、そこでしか、その瞬間でしか体感できない一つの新しい楽器になるのです。それをまとめ上げるのが指揮者といえる、そうシェフなんです。 それぞれの楽器の個性を一つの曲にまとめ上げていく上でリハーサルは欠かせません。 私が経験させてもらった忘れがたいシェフ、ある著名な指揮者のリハーサルでのこと。彼がゆっくりとした靴音でその場に現れた時から、辺りの空気は一変します。おしゃべりは止み、ピンと張り詰めた空気と皆の視線の中、彼はオーラをまとって登場するのです。オーケストラにとっては、指揮者のリハーサルの進め方、話し方やその内容が非常に重要な要素になってくるのですが、彼は、何時間もの練習時間があっという間に感じたくらい、演奏者達の集中力を最後まで切らすことはありませんでした。何が他の指揮者と違うのだろうと思ったとき、その音楽性が素晴らしいのはもちろんのこと、彼独特の話し方、間合いから生み出されるリズムやリハーサル全体を流れるテンポ感、演奏者への注意すらリズミカルで、彼はコンサートだけでなくすべての時間が音楽でありリズムなのだ、と感じました。私には、レストランの優れたシェフとその指揮者の存在がだぶってしまうのです。
そしてもう一人レストランには、重要なシェフがいます。フロアにいて直接お客様と触れ合うサービスをするソムリエ。彼らもまた、独特のリズムを持った第三のシェフだと、私は思うのです。 ソムリエ、というとワインを扱う人、というイメージが先行しがちですが、彼らの真の仕事はサービスです。どんなに素晴らしいお料理が出されても、それをサービスしてくれるサービスマンによっては台無しになってしまうこともあります。 私が出会った素晴らしいソムリエは、お客様がレストランに入ってきた時から何気ない会話に至るまですべてを把握し、その日の料理との出会い、その場にふさわしいお酒を、最適なタイミングで演出してくれます。まるで私達の会話が聞こえているかのように、さりげなく素晴らしいタイミングで現れると同時に、その動きはムダがなく軽やかで、まるであの指揮者のようにすべてにおいてリズミカルなのです。お店の雰囲気・お客様・スタッフの間に流れる空気を一つにまとめる様はまさに指揮者であり、優れたソムリエもやはり「シェフ」と呼ぶに相応しい存在ではないでしょうか?彼らもまた、心地よく凛としたリズムを持っているのだから・・・。

私が出会った3つの異なる場所にいる優れたシェフたち・・・。彼らが共通して持っているもの、それは独特のリズム感。キッチンでは、シェフがオーダーを読み上げそして出来たお皿がギャルソンに渡されるまでの、不協和音が入る隙のないよどみなく流れる音楽のような時間。食材やソースは音符で料理人はプレイヤー、シェフは指揮者です。キッチンの中でのシェフの仕事はまるでオーケストラと音楽を作る指揮者、フロアでのソムリエの仕事はコンサートホールでの指揮者そのもの、レストランとコンサートホールは私にとってとても近い存在に思えてなりません。レストランは小さなコンサートホールなのかも・・・。 シェフとシェフ。フランス語でコンサートホールもレストランのフロアも実は同じ「salle」と言うのです。 料理と音楽って、案外同じ現場から始まったのかもしれませんね…。